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日本山海名産図会 巻五 (4)

蝦夷・松前の産物と長崎の異国船
膃肭獣・昆布・唐船・阿蘭陀船

日本の最北・蝦夷(北海道)の産物と、最西・長崎の異国交易。巻五の後半は江戸時代の「辺境」と「窓口」が描かれる。オットセイ(膃肭獣)の命がけの捕獲、雪の季節に昆布を干す蝦夷の浜、そして七発の大砲とともに長崎港に入るオランダ船の壮麗な光景──。鎖国下の日本が世界と交わるただ二つの窓口の一つ、長崎出島の賑わいがここに活写されている。

膃肭獣(オットセイ)の図

膃肭獣(おっとせい):蝦夷の命がけの冬の猟

「松前の産物とはいえ、実際に捕るのは蝦夷地(北海道)のヲシヤマシベという場所だ」──厳冬(一〜二月)が最良の産とされ、献上品には必ず「寒中のもの」が使われた。

蝦夷地の「運上屋(うんじょうや)」は松前から東北方向に七〜八十里(280〜320km)、舟路では七〜八百里(2800〜3200km)もある遠方。松前・奥州・近江などの商人が出店を構え、交易を行った。

日本から蝦夷へ渡す品々:米・塩・麺(そうめん)・古着・煙草・器物など(刃物は禁止)。

蝦夷から日本への産物:海豹(アザラシ)・膃肭獣(オットセイ)・熊・熊の胆・鹿皮・鱈・鮭・昆布・鰊(ニシン)・数の子など。

「オットセイ」と「オットツ」
図会は「オットセイという呼び方は誤りで、正しくは『オットツ』だ」と指摘している。「膃肭臍(おっとつさい)」の「臍(さい)」は外腎・睾丸のことで、薬として使う部位の名称。全体の動物名としては「オットツ」が正しいとする。

膃肭獣の形態と捕猟法

体の特徴:全身灰黒色で水獺(かわうそ)に似てやや長い。顔は猫に似て小さく、口の髭が甚だ大きい。左右に大きな鰭のような手足があり、後ろの足は尾の前にある。先端に五本の爪。海底の深いところや岩上で群れをなして眠る。

泳ぐときは半身を水上に出して巧みに泳ぎ、波を切る速さは最も優れている。

蝦夷人の捕猟法:蝦夷人は縄を絡ませた舟で眠って流れている群れに近づき、「爪の尾(尾の先)」を振って起番(見張り)の一匹に見せる。大いに恐れて声も立てずに逃げるのを待って、眠っているものを弓やヤスで捕まえる。「その技は他の及ぶところではない」とある。舟は棹をさすことなく前後に漕ぐ。

蝦夷人の文化メモ
・日本の古着(古手)を最上品として珍重。酒宴では酒樽の上に古着を幾重にも積んで装飾とした。
・布は「アツシ(厚司)」と呼ぶ木の皮(楡皮など)の織物。経糸は左巻きで帯はシナ(野生の麻)の皮。
・男女とも入浴しない。眉は一文字。髪・髭を切らず長い。箸を左手に持ち髭を上げて啜る。
・女性は皆唇に入れ墨。男女とも涙は鼻から流れる。
・毒矢の毒薬は「イケマ」という草の根から蜂を殺して作る。
昆布採取と松前の図

昆布(こんぶ):「蝦夷の家は昆布で葺く」

六月の「壬(じん)の日」に採取するのが正式。蝦夷・松前・江刺・箱館などで採れる。

小舟で鎌を持って水中に入り昆布を抱えて浮上。浦底の石に生え、長さは三〜四尺(90cm〜1.2m)から十間(約18m)まで様々。まれに石ごと上がることもあるが、十日で根が自然に離れる。

適当な長さに切って、浜の砂上・家の上・往来の道など「錐を立てる隙もないほど」敷き詰めて一日中干す。夕方に取り込んで小屋に積み、薦(こも)をかけて一夜置くと塩が浮く(「荒昆布」)。乾燥後に色が赤いものが上品。

昆布の流通ルート
蝦夷 → 越前敦賀 → 若狭小浜(「若狭昆布」に加工) → 京都(「京昆布」に加工・最高品質)。この「昆布ロード」(昆布街道)は江戸時代の食文化の大動脈だった。
長崎・唐船入津と阿蘭陀船の図

長崎の唐船入津:大通詞が迎える中国商船

太閤秀吉の時代に堺から平戸へ、元亀年間(1570〜73年)から長崎に定まって今(江戸時代)に至る。長崎は元来山中だったところを切り開いた港で、今では万家が集まる繁栄した湊。

唐船は一年に十三艘が来ることになっている。荷物は薬種・絹布・砂糖・紙・器物など。遠見(とおみ)の番所が海上四十里(160km)を見渡して入船を監視し、大通詞・小通詞(通訳)が飛船で迎えに出る。

「ぼさ揚げ(ぼさあげ)」の儀式:荷揚げが終わると、唐船に祀られている神像(「ぼさ」)を長崎の寺に移す行列が行われる。昼も提灯を先頭に照らし、辻々で鐘を鳴らし、棒を振って踊り跳ねながら進む。丸山町・寄合町の遊女が来て宴となる。

「御定法の渡し物」として幕府から贈る品々:煎海鼠・昆布・干鮑・紙・傘・塗物・フカのヒレ・茯苓そのほか小間物数品。北海道の産物が長崎から中国へ──鎖国の日本における産物の大流通が見えてくる。
長崎・薩摩荷揚げ場の図

長崎の荷揚げと唐物管理:菅薩之揚

唐船が入津すると、荷物はすべて長崎奉行所の管理のもとに厳格な手続きを経て陸揚げされた。「菅薩之揚(かんさつのあげ)」とは、荷物を検査しながら揚げる公的な手続きのこと。通詞(通訳)・唐物目利(鑑定士)・奉行所役人が立ち会い、積み荷の品目・数量をすべて記録した。

薬種・絹布・砂糖などの唐物は、長崎の商人に競り落とされて各地の問屋へと流通した。長崎に持ち込まれた異国の品々は、ここから日本全国の市場へと送り出されていったのである。

長崎新地唐人蔵の図

長崎新地御蔵:唐物を管理する幕府の倉庫群

長崎の「新地(しんち)」は、唐船の荷物を保管・管理するために造られた埋立地。一帯に並ぶ「御蔵(おくら)」は幕府が管理する大型倉庫で、入津した唐船の積み荷を一括して収容した。

唐物蔵は長崎奉行の厳重な監視下に置かれ、許可なく荷物を持ち出すことはできなかった。図会には新地の倉庫群と、荷を運ぶ人夫の姿が整然と描かれており、江戸時代の長崎貿易が高度に組織化されたシステムであったことが伝わる。

出島との違い
出島がオランダ商館の居住・交易エリアであるのに対し、新地は唐船(中国船)の荷物管理エリア。両者は目と鼻の先にありながら、性格の異なる「異国交易の二つの装置」として長崎港に共存していた。
出島・阿蘭陀商館の図

出島(でじま):紅毛人の住む扇形の人工島

長崎港内に造られた扇形の小さな人工島「出島」は、オランダ東インド会社(VOC)の日本商館が置かれた場所。周囲を水堀で囲まれ、出入りは厳しく制限された。

島内には商館長(カピタン)の住居・倉庫・病院・礼拝堂などが整然と建ち並ぶ。オランダ人は日本人女性との交際や長崎市中への外出が厳しく制限され、実質的に「島に閉じ込められた」状態で生活した。

しかしここを通じて西洋の科学・医学・天文学・植物学などの知識が日本に流入し、後の「蘭学」の礎となった。図会には出島の全景が俯瞰図として描かれており、その独特の形状と建物の配置を細かく伝えている。

阿蘭陀船(紅毛船)の図

阿蘭陀船(オランダ船)の入港:大砲十八発と四十八枚の帆

毎年七月ごろ入津する。オランダ商館長(カピタン)が通詞らと共に飛船で迎えに出て御朱印を検査。その後、元船(本船)が「石火矢(大砲)を九発」発射しながら港内へ入ってくる。

西戸・戸町などの番所を通るとき七発ずつ、出島の湊に入ってさらに九発。このとき黒煙が空に満ちて船が見えなくなる。

圧巻の入港シーン:「船中ではその煙の間に四十八枚の帆をすべて巻き上げ、十か所に旗を立てて総出で装飾し、煙が次第に消えると共に現れ出て、新たに飾り立てたように美しく、その花美は眼を奪うほど。」さらに碇を下ろしてから大砲十八発──「黒烟空中に満ちて暫時船を見ること」なく、合計五十二発もの大砲が長崎の空に轟いた。

カピタンの「江戸参府(えどさんぷ)」
毎年九月十九日が前年カピタンの出発日と定められていた。当年のカピタンは長崎に残り、正月十五日には献上品を持って江戸に赴く(江戸参府)。四〜五月に長崎に戻り、新しい船の入津を待つ。──この厳格なスケジュールが幕府と出島の関係を支えた。

蝦夷・北海道の名産と長崎の伝統食を現代に

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ほえまる
ほえまるの「ほえ〜!」コメント

オランダ船が入港するとき大砲を合計五十二発も撃ったって、長崎の人たちはどんな気持ちで見ていたんだろうワン!黒煙の中から帆を張った船が現れてくる場面、映画みたいで格好いいワン。蝦夷の昆布が京都まで旅をして「京昆布」になるルートも、江戸時代の「物流の仕組み」が伝わってきてすごいワン!