筑前・宗像、讃岐、平戸・五島。冬の海に巨大な網を展開し、山頂の「魚見の櫓」から合図を待つ男たちがいました。江戸時代、マグロ漁は「ハツノミ(初綱)」と呼ばれる最初の一匹を競い合う熱狂的な文化でもありました。また若狭国には竿を使わない独自の釣り技法が伝わり、知識人たちは「鮪」という漢字の正しさをめぐって議論を重ねていました。
冬のマグロ漁に用いる網は目八寸(約24cm)、長さは大抵二十町(約2.2km)に及びます。底は箕(み)のような形で、尻に袋があります。この大網を沖底に沈め、両端に二艘ずつ計四艘の船を繋いで魚の群れを待ちます。
近くの山頂には「魚見の櫓」が設けられ、内側から魚の群れの数・規模を見定めて庵を打ち振り合図します。その時「ダンベイ」という小船が三艘出て、一艘に三人、腰蓑・褌・鉢巻姿で飛ぶように漕ぎ寄せ、網の底に手を掛けて引き始めます。
江戸っ子が初鰹の早さを競ったように、この地の人々も「初綱」の一番乗りを誇りとしました。その後この魚は美味な食べ物として盛んに珍重されたとあります。
若狭国(福井県)には網漁とは異なる卓越した釣り技法が伝わっていました。三寸(約9cm)もの大きな針を用い、苧縄(おなわ)百尋(約180m)を操る豪快な一本釣りです。
釣りにも網にも、今には伝わらない職人技が随所に光っています。
図会はマグロの身体的特徴と習性を細かく観察しています。その姿は、まるで戦国の武士そのものです。
暖かくなると海面に浮かんで日に当たり、眠るように群れなす習性があります。漁師たちはこの瞬間を狙って脂油を採ったり、脯(ほしし)に加工しました。
「鮪」という漢字を日本語の「シビ(マグロの古称)」に当てることについて、著者は丁寧な考察を記しています。中国の古典では「鮪」は本来チョウザメなどの淡水魚を指すため、厳密には不適切です。しかし日本の『和名抄』や『日本書紀』武烈記には既に「鮪」の記述があります。
「中華は大国にして海に遠く、海の生き物を釈(と)くこと甚だ粗なり。日本にて鰤の字を制したのも老魚・大魚の義を充てたに似たり」──著者は中国の文献が海産物に不正確なことを指摘しつつ、「しばらく慣習に従って可なりとも言わん」と結んでいます。
日本各地ではマグロのほか、さまざまな回遊魚を対象とした大型網漁が発達していました。図会には「鰾網(うきぶくろあみ)」と呼ばれる、浮き袋を使って海面近くを回遊する魚群を一網打尽にする技法が詳しく描かれています。
船数艘が連携して大きな楕円形に網を展開し、魚群を内側に閉じ込めながら徐々に絞り込んでいく様子は、まさに大海原のドラマです。
五艘の船が巧みに連携して魚群を包囲する「五智網」は、マグロ・ブリなどの大型回遊魚を対象とした大規模な組網漁です。各船の役割分担は明確で、見張り船・追い込み船・網操作船が一糸乱れず動きます。
図会の絵師はこの圧倒的なスケールの漁を大判の図に収め、波間に乱舞する大漁の情景を生き生きと描き出しています。当時の漁業技術の高さと、集団労働の見事な組織力がうかがえます。
「『鼠尾』っていう補強の工夫、江戸時代のフィッシングテクノロジーだワン!頭を陸に向けると尾に力が入らなくなるなんて、漁師さんの観察眼はすごいワン。漢字一文字にもとことんこだわる江戸の人たちの知的好奇心に、僕もしっぽを振っちゃうワン!」